関越自動車道(沼田IC)→国道120号日光方面へ

正面入り口を上って行きます(上の画像)
家康の墓へ

        

眠り猫
前足をしっかりと踏ん張っている事から
家康を護ると見せかけて、いつでも飛び
かかれる姿勢とも言われています。

順路(1)

「戦場ヶ原」国道120号を貫き、左右が湿原地帯で様々な植物の宝庫です。

"戦場ヶ原の名前の由来"
中禅寺湖が、上野の国(現在の群馬県)か、下野の国(現在の栃木県)のどちらに属するのかによって
領地争いが起こりました。
男体山の神(下野の国の神が大蛇へ化け)と、赤城山の神(上野の国の神が大ムカデへ化け)が戦い、
大蛇が勝ちました。
その他、この戦いの赤く染まった場所が赤沼と言われ、勝負がついた場所が菖蒲ヶ浜(しょうぶがはま)
と呼ばれ、勝利の宴が行われた場所を歌が浜(うたがはま)と呼ばれています。

拝観料支払後に正面階段を上り
”三猿・陽明門・眠り猫”へ

湯滝は華厳の滝と比べてなだらかな、その姿から”女性的な滝”と言われ、華厳の滝は”男性的な滝”といわれています

左の拡大画像です。
幼年期には悪事を見ない、言わない、
聞かない方が良いと言う教えだそうです。

華厳滝の周辺には、二社一寺(東照宮等)に代表される世界的文化遺産や、奥日光の豊かな自然が広がり、
中禅寺・湯元温泉といった湯量豊富な温泉地にも恵まれています。
関越自動車道・東北自動車道経由で、首都圏からの日帰り・一泊旅行も可能な観光スポットです。

神厩舎
 猿の彫刻を施した8枚の浮彫画面があり、
「見ざる、言わざる、聞かざる」で有名。

戦場ヶ原(ズミの花)

順路(2)

左 甚五郎(ひだり じんごろう)作『眠り猫』
江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人
地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされた為
また、左利きであった為、左という姓を名乗ったという説が
あります。(正面入り口頭上(軒下))

陽明門
江戸時代初期の彫刻等・彩色といった工芸・装飾技術のすべてが
集約され、その出来栄えは一日中眺めていても飽きないことから
日暮らし門とも呼ばれています。

”竜頭の滝”
竜が大岩を噛むように豪快に流れるさまから、竜頭の滝と名付けられたそうです。

日光東照宮  樹齢何百年という杉の大木に包まれた中にその姿はあります。
1616年4月17日、徳川家康は駿府(現在の静岡県)で75歳の生涯を閉じました。

遺体は久能山におさめられ、翌年、日光に社殿が造られ、朝廷から"東照大権現”の神号が贈られた。

丸沼高原スキー場ロープウェイより(スキー場・丸沼を望む)

五重塔:高さ36mの朱塗りの塔
酒井忠勝から奉納されたが、落雷により焼失、酒井家によって再建された。
(酒井忠勝:第3代将軍家光から第四代将軍 家綱時代の老中・大老。)

一ノ鳥居

家康が日光の祀られることになったのは、家康本人の遺言からです。
「日光山に小さな堂を建てて、自分を神として祀ること。自分は日本の平和の守り神になる」
家康が望んだ"小さな堂”は、のちに家康を敬愛する三代将軍家光によって絢爛豪華な平和のシンボル
に生まれ変わりました。現在有る建物のほとんどは寛永(寛永の大造替)に立て替えられたそうです。

戦場ヶ原
戦場ヶ原

白根山より男体山を望む

菅沼(白根山登山口)

金精トンネル付近より、湯の湖・戦場ヶ原・男体山を望む

湯の湖(紅葉10月初旬)

菅沼(標高1.731m)  白根山(標高2.577m)  画像右(白根山より男体山を見下ろす(男体山標高2.486m))
白根山は、日光白根山・奥日光白根山とも呼ばれています。
晴れた日には山頂から、富士山・北アルプス・関東の山々を見ることができます。

光徳牧場
戦場ヶ原(ズミの花)

湯の湖(紅葉10月初旬)

湯の湖から流れ落ちる湯滝(滝の落ち口)

金精トンネル付近より、湯の湖・戦場ヶ原・男体山を望む
四季を通して、ここからの景色は見事です。
戦場ヶ原(ズミの花)
戦場ヶ原
戦場ヶ原
竜頭の滝
竜頭の滝

順路(3)

家康の墓

戦場ヶ原
戦場ヶ原・男体山
勝道上人が日光山を開く為、大谷川まで辿り着きましたが激流の為に渡ることが出来ませんでした。
そこで勝道上人は神に祈ると、赤と青の二匹の大蛇が現れ橋をつくり、大蛇の背には山菅が生え滑る
ことなく対岸まで渡ることが出来ました。
別名「山菅の蛇橋」と言われる由縁です。
のちには、御橋そして神橋と呼ばれるようになりました。